街の継承 東京ゲニウス・ロキ探訪 番外編 大船編

出典:毎日新聞2019年3月9日朝刊

(写真左)内藤秀人さん (写真右)永野征男さん (写真左)内藤秀人さん (写真右)永野征男さん

2019年3月9日号 毎日新聞掲載

多様な顔生かして進化
田園都市構想が礎、紡いだ縁

首都・東京の街の「ゲニウス・ロキ(地霊。土地の持つ自然、歴史、文化的背景が生む固有の雰囲気)」を読み解き、街の魅力や可能性を未来へと継承していこうという企画特集「街の継承 東京ゲニウス・ロキ探訪」。 今回は“番外編”として大船(神奈川県鎌倉市)を取り上げた。松竹の撮影所があったことで知られるが、大正末期には田園都市構想のもとで大規模な宅地造成計画があった。そして今、隣接する横浜市域(JR大船駅前)で複合再開発プロジェクトの建設が始まり、街の姿が変わろうとしている。大船エリアの変遷に詳しい永野征男・日本大名誉教授がナビゲーターを務め、再開発を手がける東急不動産の内藤秀人・再開発事業本部事業推進部統括部長と、大船エリアについて語り合った。

【司会・構成は企画編集室・志摩和生、佐藤浩、写真・山田茂雄】

東急不動産・再開発事業本部事業推進部統括部長 内藤秀人さんに聞く

―永野先生、ご自身の研究内容を含めて、大船について伺います

永野氏〉都市を語るときに都市地理学が大事にすることは、市民がその地域にどんなイメージをもっているかを知ることです。 実は2006年にJRが大船駅ビル利用者に尋ねた「大船のイメージ」の答えの7割は「大船観音」でした。市民のもつ地域イメージは、その土地の原点に通じることもよくみられます。

内藤氏〉大船観音は戦前から20年以上、工事が中断していましたが、実はその完成に東急グループの礎を築いた五島慶太が深く関わっています。東急と大船の歴史が交わっていて、時を経て今回再開発に携わったのも縁を感じますね。

大船観音像=佐藤浩撮影
大船観音像=佐藤浩撮影

―大船の過去を「田園都市構想」からお願いします

永野氏〉19世紀末、イギリスに始まった田園都市構想を、いち早く日本に持ち込んだのは旧内務省の若手官吏たちでした。その後、実業家たちも素晴らしい街づくりの考えだと分かってきました。大船の都市史を振り返るとき、この構想を無視することはできません。今日の大船には、「田園」名称の店舗や建物があり、横須賀線の大船駅近くの踏切も「田園踏切」です。これらは、英国の理想的な郊外町を模した田園都市運動の日本における出発点でした。

―そのあたりで渡辺家が登場しますね

永野氏〉特に第一次大戦後の土地ブームは田園調布(東京都大田区)などに、渋沢栄一や東急電鉄によって優れた環境の郊外町を誕生させました。大船田園都市の設計者である山田馨は田園調布でも活躍、また渋沢の四男秀雄は大船にも関係するなど、人脈も広がっていました。大船の田園都市開発を手がけた渡辺家は、江戸期から塩物問屋として栄え、東京に多くの土地を得て「東京渡辺銀行」を中心とした金融業者として大船田園都市株式会社以外にも約40社を従えていました。

ナビゲーター 永野征男 日本大名誉教授
ナビゲーター/永野征男 日本大名誉教授

―内藤部長、いかがですか

内藤氏〉東急グループの源流である田園都市株式会社の設立が1918(大正7)年。大船田園都市の設立は3年後。田園調布と同じく道やインフラを通して中心部に人が集まれる所を造るといった構想も近いと感じます。

大船田園都市の計画地

―松竹とはどうつながるのでしょうか

永野氏〉大船の開発を手がけた東京渡辺銀行は関東大震災後の昭和金融恐慌に巻き込まれ、当時の片岡直温蔵相が国会で同銀行の「破綻失言」をしたため、28(昭和3)年に大船田園都市会社も倒産しました。一面の湿地帯を地主たちの協力で埋め立てた10万坪(約33ヘクタール)の計画地は、倒産から7年後、松竹が目をつけます。実は、資生堂社長の福原信三が大船田園都市の役員であり、写真家としても松竹と関係がありました。 そこで倒産後の土地7万坪(約23.1ヘクタール)を松竹が購入、さらに当時の大船町が町有地2万坪(約6.6ヘクタール)を寄贈しました。そこに蒲田から撮影所が移転し、残りは松竹が宅地分譲し、周辺は工場敷地として売却されました。

内藤氏〉この分譲地は、大船田園都市構想で築き上げられていた街の骨格、インフラ整備を引き継いだのではないでしょうか。松竹が、田園都市に共感して住宅地形成を図った意思が感じ取れます。

永野氏〉大船市街地で当時の田園都市計画を確認できるのは「土地割り」だと思います。大船1・2丁目かいわいの店舗の道路に面した間口幅はほぼそろっています。もう一つの特徴は、1軒の宅地と反対側に連なる家との境界が「背割り」になっていることです。方格型に造られた幹線道路に挟まれる土地の背中(かつての裏庭)部分が特色です。

1929年ごろの大船田園都市遠望(「日本地理大系」改造社)=鎌倉市中央図書館提供
1929年ごろの大船田園都市遠望(「日本地理大系」改造社)=鎌倉市中央図書館提供

―大船駅前再開発のコンセプトをお願いします

内藤氏〉「大船駅北第二地区第一種市街地再開発事業」という、地元の方々と自治体が進めてきた事業に参画しています。大船は駅前の商店に活気があり、鉄道路線も多く便利です。学校や文化施設、大きな工場もある。街がいろいろな顔を既に持っています。 一方で駅前の狭さ・使い勝手の悪さもあり、老朽化した木造建物が密集しているなど解消すべき都市基盤の問題が顕在化していました。周辺地区の都市づくりが再開発の起点。魅力ある商業拠点を形成し、都市機能を強化し、にぎわいと交流を生む結節点の確保が再開発のコンセプト、整備方針です。

内藤氏

―永野先生、改めて街の継承についてお願いいたします

永野氏〉地理的な視点では、近代の大船が「交通の結節点」として首都圏でもまれな場所だと捉えています。今日のJR大船駅は、大正末に発案された日本初の「自動車専用道路」の起点となり、専用バスが大船駅と観光地の江の島を結びました。そのルートには、今日の湘南モノレールが70年に開通しています。 また、形式の異なるもう一つのモノレールが、66年に横浜ドリームランドまで、わずかな期間でしたが運行されました。いずれにしても、JRの乗降客数10万人という数値は、今後の街の動向にとって大きなポテンシャルになっています。

湘南モノレール

―内藤部長、大船を今後どのようにしたいですか

内藤氏〉この再開発事業を拠点に、更なるにぎわいを創出し、活気ある街にしたいと思います。その仕組みとして「エリアマネジメント」に力を入れています。ハコとモノを造って終わりではなく、「育てる」街づくりの実現に取り組み、その後どのようなコミュニティー形成の場をつくっていくかまで考える。再開発では街づくりが複合化し、新旧住民が交じり合うため、自然発生的な自治だけでは難しくなっています。そこを管理会社「東急コミュニティー」がエリアマネジメント運営業務も受託し、活動を支援する仕組みを初めて導入しました。再開発事業のコンセプトは「グランシップ」。再開発事業を航海に向かう大いなる船と見立て、大船が生まれ変わるようにとの思いを込めています。

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―最後に、締めくくりの発言を

内藤氏〉この再開発は横浜市と進めていますが、街を育てていくときに鎌倉市との境界線を引くようでは、大船のにぎわいはおぼつかないです。(横浜と鎌倉の)懸け橋になり、エリアマネジメント活動によるにぎわい効果を、周辺のエリアまで波及させたいです。大船駅を中心とした共有コミュニティーの中に住んで、働いて、楽しむ姿が、この再開発で生まれればいいと考えています。行政界に関係なく、新旧住民や近隣商店などとの懸け橋にもなればいいと思います。

内藤氏

永野氏〉住民の行動パターンが重要になってきます。今後は、大船を貫通する行政界をまたぐプランニングを進めるためにも、明治以来、なかなかなじまなかった西欧の公共「広場」に、日本独自の「通り」の持つ役割を重ねることが大事になってくるでしょう。歴史性を持続する上質な公共空間の存在は地域の価値を高めます。そしてその原動力は市民の力だと思っています。

永野氏

◇1 大船田園都市株式会社

銀行家の渡辺勝三郎、六郎兄弟が1921年に設立。東海道線大船駅東側に郊外型住宅地「新鎌倉」の開発を手がけた。住宅の外観を洋風にするといった規定を設けて分譲したが、23年の関東大震災や昭和金融恐慌の影響で分譲販売は振るわず、28年に倒産した。

◇2 松竹大船撮影所

1936年に松竹キネマ(現・松竹)が開設した現代劇の撮影スタジオ。小津安二郎監督の「東京物語」などの名作や、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズなどが撮影された。2000年に閉鎖され、現在は鎌倉女子大の大船キャンパス(鎌倉市大船6)などになっている。

◇3 大船駅北第二地区

第一種市街地再開発事業 東急不動産が参加組合員として参画する=完成予想図・同社提供。JR大船駅徒歩1分、横浜市栄区笠間2の総面積1.7ヘクタールに建設中で2020年度中に完成予定。総戸数253戸の分譲マンション「ブランズタワー大船」(地上21階地下2階)と、大きな船の形をした大規模商業施設(地上7階地下1階)などからなる。

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再開発事業完成予想CG